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2018年07月11日

真言そして魂

 

 

いよいよ旧暦に変えてからはじめての大祭が始まろうとしている。
今年の大祭は色々な深い意味が籠もった
例年にない厳かなものになるだろう。
何故ならば
私の口を借り
愛染聖天様が信徒の皆を災害より救う為に導かれんと発せられた
聖なる御予言が

 

 

・大阪北部地震

 

 

・平成30年七月豪雨

 

 

という形で的中したからだ。

 

この度の災害も不思議な事に

我々聖天教の信徒にはその家族さえも被害は全くなかった。
(避難者は沢山おられた)

 

これを考えても
私達の命をその神の言葉で救って下さった事に
深く感謝せねばなるまい。

 

また篤信な信徒が先頭に立って
この大きな二つの災害の一日も早い平癒の祈祷を
現在すでに行っているが
大祭は聖天様の功徳が強く表れる祭典である。
引き続き
救済の祈祷に強く祈念を込め
日本一の聖天様の救済と深い愛に見合った
行いを全うする事によって
教主の私をはじめとする聖天教信徒としての
聖なる本懐を
教団を挙げ
遂げなければいけないからだ。

 

現在日本には台風八号が接近との事だが
徳之島の信徒の方によらば
聖天教信徒皆々の教えの兄弟を祈る気持ちが
御本尊様に通じ
台風が見事にその方の住所から遠ざかったとの事
空中には今まで聞いた事がない異音を発する台風で
平成30年七月豪雨の後、矢継ぎ早で到来した
台風だけに危機感も強かったらしいのだが
奇跡的に免れた事を
大変感謝されておった。

 

私も心配していただけに本当に良かったし、
御自分に現れる吉凶を
信仰に照らし、台風のそれた事を
御本尊様と信徒の皆々への感謝とに
素直になされるこの方の
聖天様へのまた人間として
美しい心に感銘を受け
教主として
現世利益だけではない
人の心を神の御前に於いて
伴に成長させていかなければいけないという
御本尊の教えが全うされている事を想い
嬉しくも思った次第であった。

 

何はともあれ
まだ気が引けぬし
今年の後半はこのような事が続くのだから
充分に自然災害に気を引き締めて行こうではありませんか。

 

今回の言葉では
御本尊様の災害の御予言のお心の裏にある
救済の心、
もっと核心をもってすれば
救済を超えた処に美しく起立してならない
聖天様の魂の本当について
夏の大祭の前に述べようと思う。

 

我々は
行者も行者で無い人間も
聖天様の真言を唱える
その真言には
聖天様の真言だけでも
煩わしい事に沢山ある。

 

大呪

心呪

心中心呪
肝心
悦與
調和
身呪
大金剛輪
一字金輪
仏眼

 

例え行者でも

聖天法、いや金剛界や胎蔵界を
きちんと懸命に習得していない者は
行法を結婚式の司会の式次第としか
悟っていないので
まず
三蜜瑜伽たる為には
真言を死ぬまで唱えればよいとだけ
捉えている者が多い。
確かに密教だけでは無く
あらゆる聖典の行法は
瑜伽にある。
しかし
その瑜伽たるものがどのようなものであるのか
わからないといけないし
常にその時点に満足し修行を怠り
悟りを得んと欲していなければいけない。
そもそもこのような人達は
そういう瑜伽に対する
理解と向上心が無いのだ。
だからして
このような人達は
それが起因し
終生
行法を
結婚式の司会の式次第と捉えたまま
終える方が多い。
でもそれは違うのだ
先程も申したが
行法は瑜伽行為であり
瑜伽とはダイエットの為にとかスポーツクラブや体操のような
ものでは無く(無論それもヨガだが)
ここで説く瑜伽とは
本気で神の意識を招来し、伴になる事をいうのであって
それが出来なければ何も奇跡は起こらない
しかし私はそれが出来る。
出来るからこそ
信徒の皆も、また信徒の皆だけではなく全国の聖天信徒も
驚くほどの予言や現世利益の現実と的中を
成せるのである。

 

出来ない人間の特徴は皆

「私は神仏をお招きして接待し御返しする事が出来る」
とそういう

 

私はそういった行法の話を聞いた時
このような会話をしている人間とは
もうあまり会話をしない。
それは
まったく修行が出来ていないからだ。
要するに私が言いたいのは
このように言う人は
秘法の行法を
式次第そのままに捉え
その奥にあるものを獲得していないという事が
その言葉から即座に計り知れるからだ。

 

秘法行法の裏には
それを伝えた修行者の獲得した。
普通の人間では
及びのつかない神秘と驚愕が存在し綴られているのだ。
それをこのように言う人はを知らないのだ。
いや知ろうとしないのだ。
そして
その事によってどう人が救われていくかの根本を知っていないのだ。

 

上に挙げた真言の羅列には
ただの言葉が転がっているように見えて
その言葉の深奥には
それを伝えて来た古の
修行者の獲得したる
驚愕なる神秘の秘密が
あらゆる行法の土台として
また真理として秘められているのだ。

 

全てを話せば何日かかるか知れぬから
ここでは全ては語れね
またこのような行法の秘密の獲得は
人から学んでは絶対にものにならない
親が行者だとか
知人から聞いたとかは絶対駄目だ
まず自分自身の本尊との世界観をもって
毎日終わる事無く続く修行の中
それぞれが体得してこそ本当の意味がある。
体得の経緯的観点から申せば
行法感想の世界は僅かな違いが
己の世界に違いを生じさせ
その不納得と流れの暴落により
すべての修法を灰と期してしまうからだ。

 

しかしながら
その点から考えると
上記で述べた
「式次第」と捉えたりまた「お迎えお送り」と
行法を申す
知らざる者達には
ただ素直に真言を懸命に唱える事こそ
ヨガたらしめるを悟る残された最後の
道なのではないかと
上記では否定してきたが
理解しなければいけないのかもしれない。

 

話を戻す。
私は上記の真言を唱えるにあたり
まるで我が肉体と魂を流れる
血脈とエネルギーの
脈拍に即しながら
全てを一気に唱える。
要するにそれは唱えようがないのだ。
四身が作り出す五智を
完璧ならんとし
三身によって
究竟を体得して行く
これが答えだが

 

この答えを昔のインドのサドゥー(修行者)は
後世の人に
言葉や文献で完璧に伝えようとした。
神と宇宙との一体となる
対話の秘法をである。
皆ももう理解してきたと思うが
己の感想による世界感を完璧に伝えるのは至難の技であり
それを通り超して
それは絶対無理な事なのだ
また瑜伽の完璧とは無く、その悟りは永遠に
成長を遂げ変わりゆくものだから
また一段と無理に近い、しかしながら
修行者が己が一生をかけ培ったものを
それでも後世に伝えんと記したもの
それが秘法行法であって。
それらを体得せんとせば

 

まず
真言の羅列を伝えられた
式次第の如く忠実に理解しながらも
やはり
神と己を同じ生命として対峙
させる事に学びの中心をもってこなければ
ならない。
そしてそのような対峙が何度となく
深められていけば
やがて行法の中に於いて
本当の真言の意味が見えてくる。
それは
生命に一瞬にして連なり循環し息吹く
それぞれの意識の役割を表しているといことが見えてくるのである。

 

その時はじめて理解できる。

 

古えのサドゥー(修行者)が
後世の人に己の行法を
言葉や文献で完璧に伝える為には
真言や式次第を後世の人に繰り返しなぞらえさせる事が
伝える為の精一杯の行為だったのだと
言葉では伝え切れない立体的宇宙観を
言葉と字という二次元的手法で精一杯伝えたのだと。
そのような形式をとった教本であることがよく見えてくる
のだ。

 

しかしそこにはやはり二次元的な無理があり
立体を完璧には伝えられない。

 

もしそれを伝えんとしたら
やはり上記で私が申した
神との対峙による悟りに頼らざる終えないのだ

 

要するに
古えの修行者は伝えたい文献の最後の理解の詰めを
個々の神との対峙によって得られる
悟りに掛けたのではないか
対峙による
個々の修行に完璧な理解習得の望みをである。

 

この対峙には深奥がある。
生命は意識の塊であり、
この意識は言葉を超えた
感応という伝播を見せたりもするのだ。
であるからこそ
必ず生命と生命が本当に対峙せば
そこに意識の感応が生まれ
生命と生命の電波が可能なのである。

 

これを悟りの本当の姿ととって良い。

 

そこに鍵がある

 

 

その神とのしっかりとした対峙による
立体的悟りに
二次元的理解の真言を流し込み
その意識一つ一つが
生命の一部として同時に
働き続ける事に
真言の本当の姿を見る事を
そうやって得て行かなければいけないし
得ていくのだ。

 

必然そこには上記で申した。
私の全てを感想に於いて
一気に唱えるという
唱えどころのない
唱え方の真言の真理の世界が
立体的現実として
見えてくるのだ。

 

やがてその真言の持つ生命が
実はどこまでも個々一つ一つのものではなく
この宇宙全体に流れる共通するものであって
そしてそれは共通しながらも
どこまでも個々のものである事に
気付くようになった時
はじめて今日の本題である
聖天様の魂が見えてくるのである。

 

私は過去にも何度も我が聖天教の曼荼羅の世界観を説いてきた。
その世界を思い出して欲しい。
我々、宇宙のまた次元を超えた生命は
皆、ギリギリの生命の境界線を残して
美しく共存し、寂しさゆえの輪廻を纏う者を
救い存在している。
皆自分自身なのだ、
私の中にある鉄分で考えてみて欲しい。
私は私の生命の境界を考え、自己を私と呼ぶが
私の体の鉄はどうであろう。
これはただの鉄であって
厳密に言えば、鉄に境界は無い
宇宙のどこをとっても
鉄は一つの鉄である、そう捉えると広大であり
皆さんの体の物質すべてを
このように捉えれば
私達がまるで脳細胞のようにあらゆる思考を伝達する
役割を分裂し存在しながら
光の速さより早く、ある時は点在もしながら
感情を作っているのと同じで
そういった物質に目をやると
「自分、自分」
と意識しているのは実は幻であり
その本性は同じなのだ。
しかし、それでは宇宙は無くなってしまう。
幻を永遠にするには
意識が一つになり収束してしまい
何も無くなってしまわず
存在し続けなければいけない。
そこに
私の説く
聖天曼荼羅の在り方があれば
それは永遠に在り続ける事ができるのである。
そしてその世界の理想は
あらゆる生命の境界があり続けながら
美しく共有する世界
まさに弥勒の世界なのである。

 

この世界が完璧たるには
生命個々が
心であり、思想なるものを
不可得であるところに可得を得るような流れの中に
生きる事が必要なのだ
分かり易く言えば
もし
この宇宙という夢の世界に我が一人だけ存在したならば
我を囲むものは我自身であり
それとの関係性に於いて存立していた場合
一人である故にやがて世界は孤独とenergyの枯渇で
終わりを迎え意識はなくなると伴に世界は無くなる。
しかし、その世界の中に己の願いが実現し
もう一人の
自分がそこに現れたらどうだろう
そこに意識がぶつかり合い
沢山の世界をそれは生み出すだろう。
何故ならその時には既に二人の共有した感覚が夢の世界の姿を作っているからだ
そしてその二人の内面にある意識が無数の生命として
世界に無限と現れた時
世界が一人の時は全てが理解でき、また終わる事が出来た一人の世界が
ようするに手に取るように分かり易かった世界が
意識の共存という世界が生まれる事で
それは一人ではないし常に係わり合い生まれ
変化し続けるものに変容する
それ故に
そこに存在する一人一人が
その世界を一つの世界として理解しようとしても
手にしようとしても
それは全く不可得であって
しかしながらそれをまた共存しながら求めんと欲するならば
大変漠然とした共有する理解と伴に
存在し続ける事が可得になる
要するんに
常に矛盾という土台の上にたった
完璧な世界こそが
世界の真理ある姿なのだ。

 

そして上記に於いて申した、私の真言の真理を説いた姿は
この世界に当てはまり常に循環しているのだ。
当たり前である。この世界は我々が
共有した意識の世界なのであり
その意識の流れのそれぞれを言葉にしたのが真言なのだから。
故に全ての真言が不可得であり可得在りとしながら
その意識を発流さすのだ
その時世界はまさに
曼荼羅の世界に即すように
矛盾の上に完璧の意識を構築するのだ
やがてそれは
三つの悟りと一つ究竟により
聖天との一体を見る
不可得でありあり可得な一体を
より深く一つでありながら
それはどこまでも境界があり
それをお互いが求め合いつづける様相を態しながらである。
ここで本題である
この一気に流れるように

感想する真言の羅列を

心の中に特筆なる席を設け
全ての意識の客観の中に
存立させ
行法のはじめから終わりまで
また終わっても尚
意識し続ける核になる一つの意識がある。

つまり意識の司令塔のようなものだ。

それを今日私は皆に教えたく
またそれこそが聖天の魂
三千世界の核になるものなのだが

 

 

それこそがギャクなのだ。

 

 

これを真言としてどうしても言葉に発する時は

二つある。

 

調伏の時、剣印をもって相手を

思う時と

 

これはぎゃくとは言わないが
本尊賛の最後の語句に
それぞれ
ギャクという魂を意識しながら
調伏
敬愛
鉤召
息災
増益
延命
とその時の法によって秘句を加える時に
意識するこの二つだけだ。

 

その他は

行法の秘密を知るものは

この魂のギャクを
常に
絶対的客観をもって意識し続けなければいけない

 

皆にここで考えて貰おう
上記に羅列さるる
聖天の真言を
客観をもった
魂の存在をもって
ようするに分かり易く言えば
体の心臓、脳の意識の中核をもって
体の機能を活性化させ、その流れを漠然と見た時
それはどのような精神をもった魂であろか?

 

ヒントを言えば
この世界は
いや曼荼羅は全てが共存し祈り合っている
ましてや聖天曼荼羅とはどうだろう
そう考えると答えは簡単である。

 

愛なのである。愛という言葉が異性に限定されるなら
それは救済を帯びた愛なのである。

 

男天と女天が見つめ合い
内蔵する二つの意識が無限の八葉の蓮華を産み
全ての神々と生命を産んだ。

 

二体が
見つめ合った時に、いやこの世界を求めんと
法身なされた時
万物は生まれ
愛が生まれたのである。
沢山の愛が

 

私はまだ未熟な折
この心を救済と思っていた。
何故なら救済の魂を精神の核として聖天と秘法で対峙した時
とても良く行法の精神が流れたからだ
しかし
暫くしてある疑問が浮かんだ
魂が
絶対的客観を常に中核としている時はいいが
各々の真言に目をやり
そこに意識を移した時
我が五智四身そこには必ず欲望 願いがあったのだ
聖天の魂を中核とし客観に戻し
信徒の魂に目をやるとそこには必ず願いがあるのだ。
そう確信した時
救済のみを意識せば広大な世界感の中心とし
慈悲の心をもって
わが魂は曼荼羅の中心に存立できていたものが
皆の欲望を魂の半分に意識した時
そのありとあらゆる欲の意識が
救済者として曼荼羅の中心に存在し続ける為の
慈悲の威力が休息に私の中で失速し
我が感想する世界観がとても小さいものになってしまったのだ

 

そう困り果て私は三カ月も修行に励み真理を求めた時に
得たもの
それは
聖天曼荼羅のはじまりに着眼した時に解けたのだ。

 

世界のはじまり
聖天は御自分の広大な夢の中で
全ての意識に完璧な愛を持ちながら
一人だった。
そして男天がその意識すべてに
虚空から救済の放出を願った時
もう一人の自分として
見つめていた天空が
我が夢である自在の特性をもって
救済に示現した時
そこに
強大な三身が生まれ
私も信徒も全ての生命が生まれたのだ
その時
確かに、男天の意識には
寂しさ故の、いや我々の意識には
悲しさがあり、それを補填する為の
欲望が生まれていたのだ
私はそれに気付いた時
それを救済するのは
やはり救済の心であり
負の意識はどうしても邪魔だと思った。
その時
私の意識の中に若干の悟りが生まれたのだ。

 

それは
救済の心は確かに美しいが救済という救う行為しか
無い、
何故なら
自分が秘法により男天を見つめる心
そして女天になりて男天を見つめる心
男女双身になってあらゆる魂を見つめる心を
深くそう感想した時
その見つめ方に
ただ救おうという一定の方向だけに志向する
心だけでは
それは
まるで浅く感じてしまうことに気付いたのだ

 

すると私はその悟りの片隅に
やっと
絶対的な
ある心をそこに見つけたのだ

 

それは今まででも表現してきた
「愛」という言葉では簡単に表現出来る事の出来ない
とてつも無い深い「愛」なのであった。

 

それは投げかける時は救済でありながら
求める時は祈りであり
立ち尽くす時は希望であり
無意識の時は花であった。

 

一つと一つの生命が
向き合った時

 

愛という美しさをあらゆる意識に
溶かし深め見つめ合った時

 

そこには
もうそこにいるだけで
男女の愛や救済の心を超越した
深く導き喜び合う愛がそこにはあったのだ

 

ただそこにいてくれてさえいれば全てを
許したいと思う程のそれは愛である。

 

亡くなった父や母、祖母や祖父
愛するペット
親友、信頼する恋人、夫、妻
子供

 

それらすべての存在から醸し出してくる
深い愛である。

 

私はこの感情を纏った時
救済のギャクを纏っていた時をはるかに超えた
広大な世界の中心に
感想に於いて
存立するを獲得できるようになった。

 

 

私は人の願い自分の願いを許せるようになっていたのだ。
すると

 

 

その成長した自分自身のギャクを
私は己の心眼にて覗いてみた。
そこには
以前あった薄い救済のギャクはもうなかった。
代わりにあったのは
はるかに深い救済のギャクであった。

 

私はその時
聖天の魂の真髄を得たような気がした。

 

そしてそれは
どこまでもこの世の概念の
不可得と可得を永遠に纏っていたのだ。
それ故に
私は今も永遠に
それを獲得しそして求め続けているのである。

 

淡海様が不動法に専念しようとしながらも
やはり
聖天法の中に
もう一つの何か美しい救済の精神を見て
聖天様をお祀りするに至った経緯と
私は
同じような悟りが
私はまったく足元には及ばないが
僅かでも同じ悟りの片鱗が
お心にお生まれになっていたのではと
今は思っている。

 

私は自分でも思うし
信徒ももうこんなに私と信徒として長く付き合い
途方も無い聖天の言葉を的中をもって
成果と成すところを
数限りなく見てきてお判りだとおもうが

 

人に長じた
霊能力というか要するに世間でいう
神通力がある。

 

悲しい事にそれをもって
私の事を

 

「魔境の者」

 

と中傷する者があると信徒からの報告で聞いた。

 

本来
「魔境」とは
瑜伽を修行する者が
精神が悦に入り
ある境地の途上に達した時
異常に研ぎ澄まされた感覚に陥る時の事を言う

 

例えば
華の開く
聞こえるはずもない僅かな音が聞こえたと思えたり、
雨の一滴一滴がすべて理解できるように感じたり
異形の世界の者が見えたり
神だと宣言する者と話しが出来たりである。

 

この境地を魔境といって
この言葉の如く
この境地に至った時
その境地を修行者は捨てなければいけない
慣れているものは
それが現れたら常に達観し
その先に進み
本物の悟りを獲得していかなければ
いけない。

 

こういった魔境に入り込み
それを信じれば

 

教祖といって人を間違いに導き
殺してしまったり
嘘の予言で人を惑わしたり
除霊と称し
霊が見えるといって人を殺してしまったり
取りつかれているといって
不安にさせたりする。
自分こそ神の代弁者などとも言い出す。

 

私も教祖だし、私も上記と同じ事を
言ったりもするが

 

私が魔境の者では無い証拠を申せば

 

私が聖天を呼び一体になり言葉を交わすのは
その魔境を完全に凌駕した後に
聖なる御本尊との邂逅を果たして得たものだからだ

 

その証拠に
私の予言は
聖天教の信徒ばからりか全ての万民を
生かし、救済する為の
どこまでも聖なるものだからだ

 

「大阪で地震があるから気を付けて行きなさい」
「水害があるから信徒は気をつけよ」
「北朝鮮とアメリカは今年は戦争が無くなったから
安心して」

 

これのどこが魔境なのだろう?
この人々、衆生を絶対的に救わんとする深い導きの言葉のどこが
魔境なのか?

 

密教とは現世利益である。
現世利益とは
修行者をして神を降ろし
秘法をもって
験力
ようするに奇跡、験をもって祈願者を救う事である。

 

我と御本尊様の言葉が魔境なら
弘法大師様や淡海様は
魔境を超えた魔人になってしまうし

 

この世から密教だけではなく宗教が無くなってしまう。

 

なぜこのような勘違いがどこから生まれたのか?
それは一言で申せば、修行不足と無知からである。

 

聖天は生きている。
生きているからこそ
いや修法者ならば、修法の途中で
それに頼ろうとする
魔族にも逢うし
霊とも逢う。
結界をはったと未熟者は言い張るが
畢竟、
結界とは絶えず深まる
救済の姿であり
修法を編み続ければ永遠に深まり
浅ければ何もないものである
それでも魔は現れる
恐ろしいのは
神道の神である
およそこの六道、人間界の自然に住み着いた
土着の精であり
これは神通をもっているからだ。

 

修行者ならわかるはずだ。
意識の中で
第五識で迷えば修羅道に落ち
第六識で迷えば人道に落ちる
第七識で迷えば地獄道に落ちる
第八識で迷えば天道(迷える神の世界)に落ちる
第九識を支持するならば
そこには餓鬼道と畜生道が待っている。

 

修行者は修法に於いて
意識に常に上記の愛の魂をもって
この迷いを振り払い
魔境を脱しなければいけないのだ

 

魔境は誘う
まるで悟った第一人者のような
感覚の導きをもって
例えば
上記に私の申したギャクの魂の在り方を
例題にすれば
至らない修法者のギャクの悟りに対し
まるで善と見せかけた
全くもって浅い救済という言葉の冠だけの
悟りを意識に誘い
研ぎ澄まされた感覚に到達すると
突然その意識に
修行者に
あらゆる欲の負を嗅ぐわせる
すると
研ぎ澄ませた感覚の中で
上記の各意識のどこかにほころびが出来てしまうのである
本人は未熟であればあるほど気付かないものだ。
そして感覚は研ぎ澄まされたまま
無意識に齟齬を生じ魔を入れてしまい
それはやがて
意識の層の六道へと取り込まれていくのだ
そこでおかしな声が聞こえるのだ。
しかし
その導きは聖天では無い
その声は間違った導きをもって人を騙す。
予言の不的中はもとより占いなどで嘘しか言わない
六道を迷うものは人を不幸に誘うものなのだ。

 

この魔境に入った事を知らずに生活する行者は
絶えず人を批判し、お金と名声を求め
色を好む、もうそこには袈裟を纏った悪魔しかいなくなる
誠に可哀そうである。

 

しかし、この魔境を制し
聖天との
美しい聖なる邂逅を果たし
現世利益の救済の本懐を達成する境地
それが神の境地
如来の境地である。

 

これに行きつく為には唯一つの方法しかない。

 

それが
上記で申した、今日私が一番皆に教化したかった
深い愛のギャクなのである。

 

このギャクは六道と相反する
例え天道の魔境に誘われたとしても
天道の魔境は
欲望の為に神でありながら簡単に人を殺す
しかし
深い聖天のギャクは
殺さず、見捨てず、教え続ける

 

そうである上記にも書いたが
このギャクには

 

深い愛の「許し」があるのだ。

 

私はこの愛によって
魔境をその都度脱した時
我が聖天の神の望みさえも叶え
そして許す姿を
毎夜目撃し
そして毎夜感動し涙するのである。

 

だから皆自信を持って欲しいのだ。

 

我らの御本尊、そして私の言葉は
神、如来の境地であるからこそ
的中するのだと

 

天道の神は六道故に
未来は絶対に見えない、見えていたら
意識は上昇し六道から脱しているはずである。

 

だから信徒や信徒以外の人間も
もしそのように自分を大層な者と嘯く
者がいたらよく私のこの言葉を読んで
見極めて欲しい。

 

そしてこのよな魔境に落ちた者は
正しいように見せかけながら
まるで深みのない事をいって人を扇動する。
哀れの極みなのだ、その姿は
まるでさ迷う醜い餓鬼そのものだ。
もし扇動を受けたらよく自分の心を
見返さないと
知らぬうちに自分の意識も
絶対に魔境に入り込んで
恐らく普通の人間はもう抜け出せず
一生成就は絶対に出来ない。
これはその異形で悲しく恐ろしい世界を
毎夜みている私が断言するが
絶対に成就は出来ない。
可哀そうだが信徒の中にも何人かいる
だから
ゆめゆめ気を付けるようにしなさい。

 

またもっと駄目なのが
魔境も感じない行者である。
これが情けない話だか行者の殆どがそうなのだ
百%に近い。
感じないので無意識に
魔に取りつかれて居る、これは信徒の皆も判断できる
身なりや生活ですぐわかる。

 

聖天法はだからこそ尚更危険なのだ

 

聖天は人を選ぶ。
なぜ選ぶ?

 

もし上記の魔境という観点から考えれば

 

信徒の皆さんも私も
人間道の住人である。六道の一つである。
聖天に是非救って貰おうと
私達以外でも
沢山の人が聖天に頼る、誠に人気がある。
その人気は神々から始まって
すべての六道の生命が
こぞって願い出るのは当たり前と考えて欲しい。

 

ということは
聖天法の修法の檀上には
沢山の神々と魔が助けを求めやってきているのである

 

そんな聖天法の
地場で
女色をあさり、欲をあらわにする行者が

 

まともに生きられるのだろうか?

 

神通が無い故に気付かないだけで
その行者もその信者や祈願者も
酷い霊障を受けているのを
自身がしらないだけで
地獄に引きずり込まれているのは
誠にもって必定なのである。

 

私はそういう聖天行者と信者達を
何人か知っている。
その人間達は
私の目には
魔に精気をすわれた髑髏に皆見えるものだから
私は本当に恐ろしいのだ。

 

話はだいぶそれてしまったが

 

私が今日言いたのは
信徒の皆も
私の説く
深いギャクの愛を感じ
お勤めをしてみて欲しい。

 

おんきりぎゃくうんそわかで良い
それを感じながら唱え
お勤めしてみなさい。

 

そして私とともに
常にその愛の魂を求めるを
歩んで欲しいと思うのである。

 

大祭を迎える

 

今年の大祭は色々な意味で深みがあり
意味がある。

 

その大祭を
この不可得であり可得な
偉大なるギャクをもって
己を成就たらしめ、そして他を救済し
世を十二分に愛し
そして伴に衆生を導いていこうではありませんか
聖天教一丸なって。

 

今日旧暦の後半の日数の浴油に於いて
結願を迎えた。
この日の夜は秘法は無い
しかしその代わり
私自身が満月の月となって明日の洗浴に向かい
行法を満たすのだ、

 

今私はその満月になりこの言葉を書いている。
そして満月たる私が綴り教化するこの言葉は
必ずや神、如来の境地を持って
信徒の皆を導くことでありましょう。

 

魔境に住む悲しき者らをも許し導きながら。

 

 

 

平成三十年七月十日に記す   合掌 聖天教教主兆象大宰

 

 

 

追伸

 

聖天様が大震災を的中させるたびに私に仰るのだが

日本でいや世界で

聖天様と会話ができるのは
この兆象大宰だけだと仰るのだ
故に
「よく我の言葉を世に伝え衆生を導けよ」
そう今回の水害の時も言われていた。

 

私だけが尊い聖天と話しができる、

 

私は当初懐疑的だったが
こうも天変地異をすべて的中させ
津波も起こす処を見て
私は御本尊様の並々ならない
突出した神の力を今回もだが
まざまざと感じそして経験し
それが嘘では無く
本当だと遂には達観した。

 

この世で聖天の言葉を代弁できるものは
この聖天教教主 兆象大宰だけである。

 

だからである。
聖天のお言葉の真髄は愛と救済にあるのだから
この度の大祭は水害被害無事平癒の目的も兼ねる
どうか信徒も皆はそれを忘れずに
この度の大祭に救済の心を十二分に宿し
我が秘法の祈りに伴に心を寄せて欲しい。

 

でなければ神の言葉の奇跡の意義が
一つも無くなってしまうのだから。

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