聖天教のホームページ

聖天教のホームページ

プライバシーポリシー お問い合わせ
  • ホーム
  • 心得
  • 入会等のご案内
  • 言葉
  • お知らせ
  • 連絡先

お知らせ

2015年09月23日

信徒への御礼

だがまずは先日の東日本の河川の氾濫による大水害に於いては、我々聖天教の信徒には

全く被害が及ばなかった事をご報告したい。

勿論、状況の深刻な地域におられた方もいた。

だが皆さん、不思議と大した被害を受けなかったそうで、

それぞれ尊天様の奇跡のお導きとしか思えない

お助けがあったという報告を受けている。

それだけに留まらず

逆境の中、いよいよ信仰が深まりましたという感謝の声を頂いた。

今回の水害は

私が夏の大祭で感得し、尊天様から直に頂いた予言の言葉が的中したものである

という事もあり、

責任を感じながら、懸命に水害祈祷を凝らしたのだが

助けられたとい信徒の言葉に、その甲斐を見出す事が出来た。

まずは一安心である

余談ではあるが

今回の水害はまさに歴史的なもので

関東東北豪雨と命名までされたという事である。

振り返ると、そのような大変な天変地異を、神力によって

我々信徒に伝え導いて下さり生きたお力とお守りを下さる

ご本尊様のお力に、

偉大なお力と信徒への深い愛を感じざるおえない。

今回の水害にあたり、沢山の信徒が

私の祈祷に温かい心を貸してくれた。

上記の水害の地域にいながら全くの被害を免れたという奇跡譚も

自分の心願を置いて水害の方々の為に祈ってくれた篤信な信徒達の祈りが、

尊天様に大きな力を与えて下さったといっていいと私は思う。

尊天に成り代わり、ともに祈りを捧げてくれた信徒に

有難うと御礼を言いたい。

また、御礼と云えば先日の津波である。

夏の大祭で、上記の水害の予言と共に尊天様から私が感得したお言葉に

大きな津波をともなった地震噴火があるとあった。

私も、いや信徒も、被害甚大の幅はこの予言の方が大きいので

夏の大祭終了をしても、まるで連日が大祭のように

大地震津波の平癒の祈祷に、

私は心身魂を捧げ奉った。

信徒の意気込みも違った。

連日連夜、祈りの言葉と心願を捧げてくれ

私よりも懸命に事の重大さを感じ、

供に祈ってくれたものだから

祈りというのは神仏を動かすものである。

大地震は起きなかった。

その喜びに

沢山の信徒が号泣して喜んでくれたりなどして、

ご本尊の教えが皆の心に浸透し、尊天様の如くな深い慈悲の心が沸き起こって

いるのだなと感じ、

その慈悲心の現れがよくご本尊に感応し、

そのお喜びが奇跡に繋がったのではと

私は感動させられた。

そしてその祈りの力をまたもって確信したのが

「秋の大祭もある

言葉の教化もある」

私は引き続き注意せよという尊天のお言葉を頂きつつ

祈祷を終了させて頂いた後の事である。

どうしてか祈祷終了と時を一にしたように、

小規模ではあるが日本列島を広範囲に渡り津波が襲ったのだ。

小規模ながらお知らせでは、一々と喚起を呼びかけなかったが

この知らせを知った私は

「あー、きっと本当に大きな地震は来るはずだったのに皆の祈祷で

納まったのだなー、この津波はその名残のようなものなのだなー」

となぜか心にしっくりと行く悟りをこの時感得したのだ。

私は、いや我がご本尊は

今年に入り、

すべての予言を的中させた。

その中には、これだけは整合できないが外国の大地震もあった。

他は上記の予言も含め、白日の元、整合できる的中である。

そのご本尊のお言葉の津波である。

あの津波の報を聞いたとき。

丁度千宰と供に私はいたのだが、千宰も大変に驚いて、

身を正し、手洗いうがいなどをして、いつもより敬虔にご本尊に

手を合わせておった。

話は横にそれたが、

それ故の津波である。

皆の他を愛すという深い慈悲の心が

これほどまでに尊天に、大きな力を発動させたかと思うと

感謝と感激に、私はただただ涙を流すしかなかった。

本当に心から皆に御礼を申し上げたい。

(ただ一つ反省しているのがお知らせにも書いたが、水害を信じきれず

無視していまっていた。もし、地震津波の祈祷のように皆で

真剣に祈っていればもしやして免れたのではと思うと

忸怩たる思いである)

普段は皆の為に一人で拝んでおるが、

皆が一丸となった時のご本尊への奇跡の感応を、水害と津波という

巨大な自然災害にあたって体験し、

なぜ大祭に成就が多いのか、不思議な出来事が集中するのか

秘法にあたってもそうだが、

それは皆の祈りが一丸となって尊天を突き動かすのであって

これは大変な大きな自然災害をも

突き動かしてしまう程の力を持つのだと

教主でありながら今回は勉強する事ができた。

これからは、今まで以上に大祭を大切にしていきたいと思う。

以上が長らく言葉を更新できなかった。

言い分でもあり、夏の大祭以降、我々聖天教を

驚かせた事象の経緯にそった報告でもあるのだが、これで終わっては

聖天教として一番大切な教化がまるでないのであるのだから

これはいけない。

そこで、今回の皆の天変地異に対して

私と供に祈った事に対して、それがどのような合点で

姿を変えそれぞれの功徳になって行くのかを申し上げたい。

私は毎日、三時間から三時間半、浴油に限っては祈祷している。

他、華水と洗浴を合わせると大変手間をかけ、ご本尊様に

お仕えさせて戴いているのだが、

この浴油の中で、常に感じ、常に繰り返されていること

それは、輪廻であり因果なのである。

私は護身にて宇宙ばかりかこの時点での尊天との邂逅、即ち

菩提そのものを感じ、おのが身を同一させる

自は他であり、他は自であり、

すでに心に双身の尊天を頂く我は、宇宙を飲み込んだ後も

己が外界に、絶える事なく愛を影響する同じ宇宙を感じる

その絶える事のない輪廻の宇宙観の装着の繰り返しにより

見えるものそれは、

我は、いや我々は、同じ世界を見

その世界を心に置いている、そして我のいや我々の心に

ある世界に、我々は生きている。

そして、自分有りきと思う感情、心、は、この心たる

外界視野の世界を内界視野たる心の世界と

無限に繋がる、

聖天教のマ-クそのものの無限の輪廻を感じ、確信するのである。

そして更に意識を深く探れば、やがて身にまとう皮は剥がれ

すべてが尊天の身、いや心にいる、その心の一部であり、

宇宙次元が、我々の霊体が煙でできていると

見えてくるのである。

この煙は非常に美しく、慈しみ、思いやり、愛し、それを成す事を

喜びとするもの、

そう感じれば感じただけ即座に世に

慈しみの風と思いやりの光と熱と、愛す恵みの雨引力

それらを成す喜びは、常に我々の心を癒す、自然、宇宙

銀河になりうるのだと

私はそのとき鶏羅山とは須弥山とはなんたるかが漠然と

わかり、遂には尊天を招来する

道場感をもうすでにこの時に作り上げてしまっているのだが

はなせばとめどなく一度では出来ない内容なので割愛するが

この摩訶不思議な輪廻の構造と意思をもった

神秘の大宇宙の霊体を感得した私は、

尊天の御足を洗い、真心を捧げ、形ある御供物の捧げものをして

おもてなしする作業をし、その後

大根、酒、歓喜団を捧げ、浴油に入るのだ。

この作業に入る私はこう感じ、また尊天に教えられる、

輪廻総体たる尊天の足を洗うは、思いやりを慈しみを捧げるに同じ

その善良な思いは、宇宙でもある尊天に対してされたものなのであるから

世の一切の銀河の星々を慈しんだと同じであり、

その捧げた思いは、自分に、ある時は即座に 或る時は時を経て

必ず、輪廻する因果を持つと、上記にものべた。

愛の心の成り立ちは愛の実際の姿に変わるという輪廻の側面をもつ

菩提たる大霊体の尊天に対し、

真心を賛じれば、即ち、それは塗香であり華鬘であり

皆がご縁日で捧げてくれているお供物になる、灯明に変わる

これらは真心が変じたものであり、真心そのものなのである。

そしてその真心に即した、輪廻、因果の美しい応報が

必ずやなされるのが尊天の性なのだと感じるのである。

この時私は思う。

宇宙が愛し合い、助け合う事こそが世の中、宇宙、尊天を形作っているのだ

そして、己が身口意の一人よがりの心の輪廻の世界に迷い込んでいるのが

人間の煙のごとくな霊体であり、それは実はこのような非常に美しい

輪廻総体たる尊天の心の一部であることに気づかせられることを

救済とし、大慈悲を起こされた尊天に感応した者の心に現れ、

またその者の心を使い、より多くの霊体を浄化し救おうとする

尊天のお姿が見えるのである。

まるで私の心に現れ、私の気持ちを一つにした

信徒の心に転写していくような解脱救済の伝播である。

深い尊天の愛を感じた私は

この時、苦を抜き楽を与えるという意味を自分の物にする

それが尊天の愛による輪廻総体たる己が含まれる霊体の美しい浄化なのだと

わかるのである。

この時はじめて、私は正しい調伏とは何かをしる。

世に害をなしならない者もいる。許されざる者が有る。

尊天はその霊体達を見捨てはしない、懸命に浄化しようとする。

なぜなら、宇宙にある質量が永遠に等価なのと同じで

尊天は宇宙であり、苦を抜き楽を与える、輪廻総体なのであるから、

ただ、一つの悪人もこの宇宙から落ちこぼさせはしないのだ

その浄化の過程は、その者の度合いにより、時には死という形で

姿を奪い、長い浄化の輪廻の階梯を与えたり、

今生での苦しみノルマを与え、

浄化成長をあくまで輪廻の階梯の中で施行するのである。

聖天教では敵をも愛するとするが

憎しみを超えた、慈愛による宇宙浄化たる調伏により

輪廻総体たる尊天の御心に貢献する行為は許される、いや義務なのだと、

この時確信する。

私は捧げる。

真心と形ある愛を。

非常に大きな愛を尊天から頂く事がわかり歓喜した

私は、尊天に油をかける時の心を構えをここで獲得する。

秘法になるので詳しくは割愛するが

慈しむ心を捧げ油をかければ、慈しみが返ってくる

「あーこれはあの困ったときに、急に何かが見つかったり

導かれたように事がうまく行った時に頂いた功徳なんだな。

この思いがこの功徳を生んだんだな」

思いやりを捧げ油をかければ、思いやりが返ってくる

「あーあの時、どこからとも言えない力とやる気、意思がみなぎったのは

この功徳なんだなー、自分が育ち、他を生かせた功徳、愛する力を

頂いた功徳なんのだあ」

愛を捧げて油をかければ、愛が返ってくる

「あーあの信徒さん奇跡の愛が返ってくるね、あの信徒さんは

愛が足りなかったね。素晴らしい愛が見えるね」

それらを成す喜び、即ち喜びをかけると喜びが返って来る

「たくさんの知恵や福がここにはあるんだね、まるで沸き起こるように

返ってくる、心配や恐れが消えて行くね」

そして最後に私は皆に出来ない、魂と命を捧げるのだ。

その時、おんぎゃくぎゃくうんそわか と

大呪、大金剛輪、一字金輪、あらゆる真言の意味が

わかり、

それと共に物質を超えた満足を得るのだ。

それは非常に尊く、美しく、清らかで 気持ちが良いものなのである。

そして今回の皆の祈りの功徳がどのよに現出したか

どのように価値があり、どのよな側面があったか、そしてそれがどのように

返ってくるのか

以上でそれぞれが悟り、学んで欲しい。

何より最後に、信徒それぞれがいままで本尊にどのような心を捧げてきたか

悟って欲しい。

例えば、仕事やお金はうまくいくが恋愛はだめだ。

そのような人は、愛を尊天に捧げていたかな?

病気は治っても仕事が駄目だ。

信仰は深いが千宰の云う事を聞かず、不遜な面がある。等、

得られているもの、得ているものをそれぞれが

私の浴油の秘法から学びとりこれからに生かしていって欲しいものである。

なにはともあれ

今回の夏の大祭以降の災害に際し

心を捧げてくれた信徒に心から有難うを言いたい。

 

合掌 聖天教教主兆象大宰

 

追伸

結局本当に津波は来た。

これで全て尊天様のお言葉は現実のものとなった。

宇宙とは生きているのである。

それが尊天様であり。

尊天様は

私達を常に愛し、永遠にともに生き、寄り添って下さっているのである。

それに気づいたものは、

誰もが予言を知ることができるのである。

信徒の皆さん。貴方達一人ひとりは尊く、美しく、偉大なのですよ。

 

 

 

 

 

 

一覧へ戻る