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2018年07月28日

2018年夏の大祭の抱負

 

※夏の大祭の起草文を

信徒の皆様の信仰の一助とならん事を願い掲載するものです。

 

 

【抱負】

 

 

聖天教では、今までの太陽暦より

明治以前に日本で使用されてきた、旧暦(太陰太陽暦)
を聖天行法、日々の歩みの基礎とする事に決めた。

これは、古来の法に
厳密に回帰する事によって、より強い、聖天様との
合体をして行こうという理からなのだが、

その理由をもっと分かり易く、加えて核心をもって説明しようとすれば
それは
新月を満月に変えるという思想からなのである。

篤信な信徒の皆様なら、この私が言葉等で説いてきたところの
聖天教の聖天秘法の世界観をもう充分に御存じだと思うが

我らが存在するこの三千世界は
大日如来の最後最高の方便身であるビナヤカ神御一人の
夢の中の如くの世界が練成し
創造された姿であり、
御本尊様が己の夢の中で求めた、救済の形が
女天であり、ご本尊様を囲む宇宙が
慈悲の塊として女天に化身した刹那
御本尊様と女天は、これもう即ち同体でございます故に
その内心を見つめ合い共有した瞬間に
夢であるが故に、気も遠くなるような様々な意識が
魂の個体となって
飛沫の如く宇宙に展開し、
この気も遠くなる程の魂が男天女天の内実なるが故に
その二天を中心に
同じ世界を共有しているが故の
世界の色、形、姿を
夢の中に現出させている世界なのである。

だからして、己が魂が解脱したものの世界は
あらゆるこだわり、欲から脱却している、
その世界の理想が
ケイ羅山であり、ここには昼と夜が無い。

そして、この宇宙が女天の降臨で我々の魂が創造された時
魂は皆が中心である
男天と女天の方角を見て、一斉に解脱に向かう

解脱した聖天の世界と遠い世界にあるのは
この世界を求めた男天が女天を求めた時に
感じていた寂しさに一番影響を受けた魂の集団である。

その数は三千世界に飛び火し、途方も無い世界を形成し
その中で循環し、一見寂しさ故の地獄のような世界でも
必ずやの二天の世界への
解脱に向け、気の遠くなるような道のりを
同じ魂のレベルを持ったもの達と世界を共有し
創りながら、向かっているのである。

その途方も無い沢山の世界の中で
同じ魂のレベルの生命が、解脱を求め輪廻している世界が
この六道なのである。

この世界には、愛と悪がある、私達の心にも善と悪が存在する。
私達以外の動物にも、
それが伺える、決まりを守らず獰猛に振る舞うライオンも居れば
無用の殺生をせず、自分を犠牲にするライオンがいるのを見てもわかるようにである。

だからこそ
この六道内で沢山の輪廻を彷徨い、やっとの輪廻の果てに
慈愛を求道できる思考を持った
人間という生命に生まれ変わり
様々な形で慈愛、善を学び、思考し、解脱成就の世界への
解脱の道を切り開くのだ、
人間の生命とはそのような最高の機会を
得た、解脱の岐路を生きる定めと言ってよい、
ここで、それを学ばなければ、また長い長い、虫、動物ばかりか
違う世界、地獄よりおそろしい世界に落ちていく、
我々は人間に生まれ、他の動物より
慈愛を求める、思考をもっている
我々はそれを存分に活用し、魂を成長させてこの生を終えなければ
そこには愛の薄い故の生命への輪廻に
落ちていってしまうのである。
そしてこの生を慈愛を充分に高め、徳を積み
生を終えたなら
次は天、自在天に生まれかわる、
天照大御神や八百万の神である
しかしながらこの神々はあくまでも
輪廻の途上であり
極めて人間に近い、
もし、輪廻し、六道に神に転生した
ならば、
更に人間で生を受けた以上に
徳を積み
己の持つ自在力を
駆使し、衆生救済の道を邁進しなければ
これも、やはり、転落の輪廻に落ちていって
しまうのである。
だからである。
八百万の神に祈願し一時は功徳を頂いても
突然理由も無しに、神の怒りで殺されてしまったりするのである。
要するに、この昼と夜、善と悪が存在する六道の心を
もっている解脱していない神だからである。
東京の神社で兄弟が殺し合った事件などは
信徒の皆も記憶が新しい出来事ではないだろうか、
この神々が六道の自然から生まれた
六道という地獄の長であり
彼らもまた解脱を望んでおるのである。

話はそれたが
要するに私達の世界、この六道には
昼と夜があるのだ、
そして私達の世界には常に私達を照らさんとする
太陽の中に
暗闇を照らさんとする月が現れる、

そしてこの太陽と月は
上記に思想に基づけば
我々の心の中にある、勿論六道の神々の中にある
そして動物の心にある
人を照らし、善を良しとしようとしたものが
具現化したものなのだ、

それは世界創造の際に
その折の創造主の寂しさの影響故の世界が求める
一縷の善であり、その世界は
必ずやいつの日か解脱を迎え
ついに月は満月を継続し
果ては太陽と合一し、この世は
常に輝き、そこには未来と過去が無くなり
輪廻が消え、永遠の生命が
祈り合い、存在する世界が到来するのだ

聖天様の世界には夜が無く
時間が無い、
故に距離もない
姿形も自在に想像のままに変容し
生命に限りが無い

しかし、我々の世界は心に同じ寂しさを、
激しく善と悪をもった
魂が固まり合い
この昼と夜、解脱していない故の長い時間と
距離の存在する世界を作り出している。

実はこの世界や意識は
夢の如くの幻想であるのだから
意識は重なりあっている、
要するに次元は重なりあい
実はすぐそこに神仏がいるのをしらないまで
心が到達していないだけなのである。

私が行う聖天法は
この世界に
御本尊に本当の聖天様の神経と肉を三昧、心を降下させ
聖天様を囲み、ケイ羅山を創造する
ありとあらゆる神仏をこの世に顕現させる
そしてその世界が強く加持され
慈深まった時世界は重なり
愛深まった時に
計り知れない
聖天様の世界の救済が
この世界に憑依する。

そして私は思うのだ、

私にもある人間としての様々な欲望をすて
それ故に存在する
我が肉体を捨て

今こそ、千宰や我が信徒達の欲望という肉体という
業の塊たる肉体を
我が肉体とし

それを叶え、成就させ
その心の
闇、新月に満月を入れ
やがて満月を太陽に変え

どのような願いでも満願成就足らしめんと
蓮華の花に挑むのである、

その刹那は私は
確かに目にするのである
三千世界の欲望を叶えんと
その業の身を
二天、一身になって纏う
この世の救済の究極の姿を

その時にはもう
私の体は私では無く
二天の体も二天の物ではなく
この世に祈る、善なる祈りを放つ
全ての生命が
共有する肉体を感じ

呼吸血流細胞までが
我は一でなく多であり
多は我でなく、一であると

まるでそれは漠然と
自然の事のように思えた時

我が心臓と本尊、それを取り囲み
宇宙の果てまで広がる
両部界絵諸尊聖衆、外金剛部だけでは収まらない
西洋の神々、果ては宇宙の神々の
心臓に
ギャクの字を感じるのである
それは我の吐息の血流に従い
愛ふかめんと思えば
心臓から血が流れで
過去までも救済せんとされに深めれば
心臓に戻る

果ては
その逆なる心臓の血流と吐息は
宇宙そのものの
血脈に変わりえていくのだ。

この時、六道の神々でさえも
救われんとしている事を感じるのだ

私はこの時
聖天と
喜んでこの解脱していぬ神々の業さえも
いや、その聖天の背負う
三千世界の業を伴に纏い

三千世界にあらゆる、真の成就を願い
油をかけるのである。

私は、千宰の書いてくれた文章を見た。

このような行法を昼夜なく修しているせいだろうか
どこか、それに書いてある
的中の羅列が
他人の、というか聖天様の功績にしか
感じられず、

確かに第三者の目で見ると
やはりだが、神の仕業でしか出来ない
的中率を感じ
神の眼、神眼と言ってよい程だなと感じるが

それが自分が成している事と思うと
そら恐ろしくも感じる。

でもただはっきりと言える事は
私の神は生きている。
それは行法に於いて
常に感じ
その功徳は
深まる続けているのだ。

私はその神
愛染大聖歓喜観世音菩薩と共に
この夏、
己の欲望と肉体を捨て
信徒の欲望、業、不運、悲しみ、怒り、挫折、一切を背負い。
油を浴びようと思っている。

話はそれてしまったが続ける

そして私が油をかけ終わった時
聖天様の世界と
我々の世界の深まった結界は
深い愛の祈願で溶け合い
融合し、
夜の無い、月が出ない闇夜の無い世界に
日月の
到達を果たすのだ、

いやそう到達を果たすため
聖天の秘法は
休む事なく修さなければいけなのだ

これが聖天秘法の極意なのだ、

我々人間がよく頂く、功徳、成就は
未だ、その最高の成就を迎えていない
この世からすれば
ほんの飛沫のような成就であり
その道すがらの一欠けらしかすぎない。

聖天法の極意とは
この世から夜と闇と時間と距離を
取り去る、そのような壮大なものであり
これが成就した暁にある
我々、六道に生を受ける衆生の成就とは
いったいどんな大きさの幸せなのが
私には見当がつかぬ程、そのスケールは大きい。

旧暦とは
月を基本に暦をすすめるものである、
これを見て行くと
察しのよい信徒はすぐわかると思うのだが

太陽を基に
夜と昼があるように
月を基にすれば
夜の中にも
一か月の内で
新月という、月が照らさない周期と
満月になる周期とがある。
そしてこの新月の夜と周期が
太陽、月、二つを基にして考えても
全く暗闇の状態なのである。

要するに上記の思想を基にすれば
この新月の暗闇は
六道すべての暗闇を具現化したものであり
我々の飽くことない欲望の具現化そのもともいえる
それが漂う世界の暗闇なのである

この暗闇の最高潮が旧暦で毎月一日に当たる新月の夜
なのである。

この日から始める聖天法は
旧暦の毎月15、16、17、の満月に向かって

要するに、
我ら、六道で生きる、一切衆生に、また我々信徒の心の暗闇、欲望の心に
満月、成就の光を埋め込むのである。

そして何故、聖天秘法はやめていけないのかが
この次の周期の聖天秘法になり、

これは一座四百回、二座目必ず三百回の油をかける極意にも通ずる
(インターネットを見ていて、一か月に一回だとか
一日三百回掛けるとか、変わった事をいう行者もいるようだが
私には理解が出来ない、いったいなんだろうか?
もしかして、七箇所加持と間違えているのかもしれないが、それならば
法全体が崩落する、違うのだからである。
ましてや、基本である、金胎両部の行法も機能しなくなる、本当になんなのだろうか
私には本当に理解できない)

ただこの極意をはっきりとここで言いたくないので
それは置いておくとして
(最近は注目されよく沢山の方に見られているようなので悪用を避けるため
核心は避ける)

少しだけ片鱗を申せば
後半の行法は
金剛界曼荼羅に即しながらも
前半の行法で得た、満月をある思想をもって
持続させ結願させ
さらに光らせ
また前半の暗闇であるはずの
新月にそっくりそのままはめ込むのである。
これで永遠、最高の成就を展開させていくのである

だからして、行法を
17日間で終わらせてはいけない、後半の日程も浴油をしなければ
行者に、寺に、何より信徒に、そして何より六道のみならず三千世界に
闇が訪れてしまうのだ、

一日の行法もこれに当てはまる、夜中子の刻を結界をもった我と本尊
そして信徒の身となし、
丑の刻を第六識とし意識の始まりとしここに一番の魔が差し込む時間とし
寅の刻を大七識としこの時間も意識に魔が差しこむ時間とする
そして卯の刻の夜明けを第八、九識と捉え
これを真ん中に対称して午の刻にそびえる
善なる、我が体に時間、と星々の影響は
流れて行くと考え、
午前0字の暗闇から始まる、丑の刻寅の刻の恐ろしい悪心に
午前十二時の、善なる我を聖天法により
合一させるのである。

要するに夜に昼を入れる
夜に太陽を入れるのである。

だからして、もうおわかりになったと思うが
一日分の聖天秘法は太陽暦を満足させている分

暗闇を満月に変える思想は
旧暦をもって成就させるのである

因みに
輪廻を生きる人ならば
夜を昼に変えた時、もう一度
曼荼羅の世界を逆に歩くゆえに昼の12時から夜の十二時に向かうのだが
これも上記で説明した
一か月の行法の後半の思想を
一日の思想にもってくれば判る。

夜に下らず、昼の太陽をそのまま夜にもってくるのだ

これにより
太陽と月は聖天の秘法により輝き続けるのだ

行者がその秘法を途絶えない限り。

聖天様は昼から夜に下りないし、満月から新月に下りない。
要するに、暗闇が無いのだ。
だから
人間や解脱していない神のように
曼荼羅を常に深める事はあっても
戻らないのだ。

だから天部の神は昼以降は私は食事はしないのだと思う。
だからこそであるが
昼以降に事情があって献じても
喜ばれるのは
やはり、昼以降も夜は無いからなのである。

聖天教では
そして私の修する秘法は
これより先、この思想をもって
完璧な聖天様との融合を果たす。

少し長い説明になったが
信徒の皆ならばこの大切さと
壮大さが私以上にわかって頂けたと思っている。

だからこそ
今年の夏の大祭は特別なのだ。
皆の業と欲望を
私が一身に背負い
我々の頭上で息する
月の輝きをもってして
太陽の輝きでもって
闇を封じ
成就と成す
はじめての祭典になるのだからだ。

 

合掌 聖天教教主兆象大宰

 

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