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お知らせ

2014年10月30日

生ける神―成就への約束

やっと秋の大祭が結願を迎えた挨拶をさせて頂く前に、教主でありながら皆への信仰の教化をしばらくの間期間を明けてしまったことを、

如何に世上での自然の猛威の事象があったとはいえどうかお許し願いたい。

しかし、だからと言う訳では決してないが、尊天への行法への一層の猛進は、信徒の為も然り今回の事象への祈りの姿勢に現れていたのではないかと自分では思っている。

どうか私を赦して欲しい。

また土砂災害に続き、御嶽山の事象の祈祷は、私も含め、信徒のたっての依頼でもあり、秋の大祭と並行し、聖天教教主としてきちんと段を築き行わせて頂いた。

ほぼ信徒全員という救済祈祷の願いが届いた為、ホームページには敢えて掲載はしなかった、篤信な方の中では、慈愛の心のあまり、気を揉んだ者もおられたと思うが皆の慈しみの心は教主である私が十二分に受け取り、心籠った祈祷に臨んでおったので安心して頂きたい。

今年は、よくこのような祈祷が多かった。

その度に信徒の皆の熱い心、聖天教の教えを堅持し成就へ日々邁進して行こうとするその真心に接すると、教化しているこの私が、皆に成長を促されているような感に至り、

誠に感涙抑えがたいとはこのことだと染み入るばかりであった。

皆の慈愛の心の成長に感謝申し上げる次第である。

さて、無事秋の大祭が終了した。今年はあと冬の大祭を残すばかりだが、今年の大祭は皆の困っている他者への思いやりに御本尊様は随分と歓喜なされたのだろう、結構な数の成就者が生まれた。

成就した者は、成就に浮かれず、より一層の信仰をしなければ、私が今まで見てきた結果は、その後の破局、破滅である。これは言葉にはならない悲劇である。そしてそういう者に限って、お勤めの疎か、私への嘘の報告、御神籤だけの信仰をしてしまうのだ。

要するに聖天と私の神通力を足蹴の如くに扱っているに等しく、尊天の御経に書いている如く、頭をまるめて七分に割ってしまう如くの人生の崩壊がその者達にはみられてくる。

よくよく心して感謝そしてより一層の信仰の道に邁進する事を導かせて頂く。

そんな中、今回一番嬉しかった成就は、免疫不全で妊娠までも絶望的だった方が完治した事だ、治癒が不可能ではないかと思われる難病が

完治する事の難しさ、私も、その報告を聞き、教主ながら尊天に誰より身近に接しこのような奇跡譚の枚挙に暇がないのだが、このうな事が起こる度に、いつのも事だと簡単にあしらえぬ不思議の境地を感じ、勇気と感動を憶える。

この方は大変まじめな方で、もう何度も成就なされていらっしゃる方で、真言宗のお寺の御嬢さんでもある。

この方の天災、人災への心のやり方、聖天様への心のあり方、実に熱心であり、それには飽きるという事をしらない、本当の純真がありありと垣間見れる方なのだ、

私は一生この方を懸命に支えていきたいと思っている。

総じて今年の秋の大祭は大成功であったと報告したい。

話はそれるが、今年沢山の事象が日本を駆けたが、

全国に日に日に膨れ上がる教団にあっては一人の被害もなかった。

中でも紹介したいのが、

「先生、あともう少しで家に水がせまっています、助けて下さい」

という報を聞き、急いで尊天に頼んだところ、

「家の手前で不思議なことに水が引いていきました。ありがとうございました」

とい知らせをうけた事だ。

これが我が御本尊の力である。

 

さてお知らせの項にも書いたが、私が篤信な有志の方々に直接呼びかけさせていただいて

寄贈という形をとらせていただいた袋香炉が先日大祭終了と同時に

完成し手元に届いた事を、ここでもご報告させて頂く、

聖天の道具は、まず、注文があってから制作という形をとる品々が多い、しかもその一品、一品が高価であり、その中でも我が御本尊は上記のような私自身、御本尊様以外では、まさに目にし耳にしたことのないような奇跡を現出なされる御神様でいられるものであるから、尊天信仰に言われる

如く最上のものをという教えを矜恃する以上にそれに殉じようという姿勢で御本尊様の、有難い御身の調度品は調えているものであるからして、形、細工、材質に趣向をこらし、職人の方々には、井形からの制作をして頂いて出来上がったのがこの袋香炉である。

職人さんの出来上がってからの言葉を、お知らせの項にも掲載したと思うが本当に感動と、深い感謝を有志の方々に覚えた。

まさに秘法は我に在りと感じさせて頂いたこの経緯に、御礼を言いたい。

秘法では、心に喜界観を観想する。

これは尊天特有の世界であり、尊天秘法の妙技でもあるのだが、

私は普通の喜界観にもう一つの到達した悟りを加える。

風が吹き、楕円の形をつくり、やがて火が生まれ三角を、

雨が降り○が到来し、

その雨が降り注ぎ形が生まれる、これは四角である、

そうして、それを網羅した宝珠の形がてっぺんに据えられる卒塔婆(お墓の形)の形が心に現れ、気が付くとそれは、尊天のおわすケイラ山で

あり、その頂きには油の川が流れ、川の中央で尊天が隆起していると想起するのである、

やがてその想念は目の前の道場(現実に眼の前にある祭壇)が造る擬似的ケイラ山を確認し、現実と想念が同化をし、高い冥想状態に到達したまま油をかけるのだ、

故に、尊天の如くな、黄金に満ちた、富と愛と奇跡の功徳をくださる唯一の神は

全ての世界が黄金に輝いてこそより現実感のある境地に合致する事ができるのだ。

だからこそ、金にこだわる。

油を煮る為に起こす袋香炉は黄金のケイラ山と見る。

油を入れる多羅はケイラ山の山頂に流れる奇跡の川であり、

中央の隆起する、浴油用の銅の尊天がいまかいまかと浴油を待ちわびる、まさに尊天の伝説の物語を秘法の装置に置き換えたものなのだ。

夜中の二時に調度この伝説の浴油の物語は、合わせて行われれなければいけない

なぜなら、御釈迦様のお母様が神に祈り巾着に砂金を入れ、大根をともに供え、子供が欲しいと祈った処、白い象、即ち尊天様が夜中の二時に現れ、御釈迦様のお母様のお腹に入っていった夢を、お母様は見たそうだ、そしたら明朝懐妊をされたという言い伝えから

夢を見る二時に皆の心に現れ全てを変えていくようにするのだしている。

私はもっと掘り下げて、信徒さんの心、信徒さんの心願に関わり成就の為に必要な人間への心への呼びかけ、信徒さんを捨てた者、信徒さんが欲してやまない心願相手への心への呼びかけを考え呼びかける事に通じていると思いながら、そう油をかけている。

話は喜界観に戻るが、私の喜界観は上記の想念に更に深い到達を加える。

風とはどこまでも澄んだ青空の如くな尊天の心を現す、それはふと見れば童子のような疑いのない心であり、ふと味方を代えると金剛摧天のような傘(王様の持つ日笠)を持つ王様のような誇りに満ちた堂々たる心にも見えるのだ。その色はどこまでも青であるが

やがて透き通るように鏡の如くなんでも写す事の出来る特性を持つ我と信徒一人一人の心の海に見えてきて、その海はやがて胡麻油の海にかわり、尊天と我とそれぞれの秘法の信徒の打ち寄せては引くを繰り返す油の海に変わるのだ。

その海にはやがて尊天の心願、我々の心願が油面にギャクギャクと揺れながら沢山浮かびあがっているように感じ入る。

そしてそれは目の前の多羅とその中に入っている油だと気が付く。

その中央に隆起している銅の尊天様は三角に燃える炎を有しておられる、その姿は

尊天様の魂はやはり尊天様の姿そのものであるかのように御本尊様と同じ姿、双身である。

しかし、観方を変えるとそこには金剛食天でありその炎の性質は宝珠であると悟る。

そしてその三角の炎は我々ばかりか生きとして生けるものが皆有しながら

澄み渡る、風であり海であり油である心を糧に燃やしているもの、即ち魂と感じるのだ。

色は火のように、時には光のように黄金に輝いている。

その時、尊天の魂は奇跡を起こす宝の中の宝物、宝珠そのもので、眼前の油多羅の中央に隆起するその魂は、我々の思いの入り混じった油をかける度にその宝珠の魂がいよいよ火に油がそそがれ光輝き、奇跡の昇華を成すのだと解り、しばし感嘆する。

やがてその奇跡の昇華の作用により、赤い(私は雨を血液と観想する)雨が降り注いでいるのに気づく。

その赤い雨は、よく見ると油の中に流れ、火の中にも作用しているが

見えないだけであって、昇華により噴出してきた汗のように初めて中空に見えるのだと悟る。

私はその時気が付く、この雨一滴、一滴は十一面様だと、そしてまた観方を変えると弓を持った金剛え天に見える。

金剛え天のその弓が、十一面様の誰にでも注ごうとする大慈の

法瓶と供に、人の悲しみを捉え叶えてあげたいという思いだと感じる。

例えば法瓶にて優しい言葉をかけると供に弓矢で何としてもその悲しみの欲する解決を獲得する如くな、

要するに信徒皆の心願でいえば、意中の人間の恋心を射抜いてみせようとする大悲の心が備わっているのだと驚嘆するのである。

そしてこの赤い雨は我々にもある血液であり、我々にも尊天のような大悲の弓はないが、誰しも十一面様の菩薩の赤い血が流れていると気づき、

その血液を表す円は、全ての漠然とした形質を循環するものであることを

意味する〇であると知るのである。

この慈愛の血液に冷やされ、温められ、造形され現れるのが地球であり大地であり、人であり、動物であり、形あるもの全てなのだと感じると

「あー我々はじめ万物は、目の前の岩、石ころであっても慈愛の塊なのだ、そして偉大な

我が唯一の神のもつ血液は大悲もそこに加わった偉大な血液であり、それに冷やされつくられた、その御姿はまさに唯一の慈愛心、大慈大悲をお持ちの偉大な神さまなのだ」

そう到達するのである。

ここに我が兆象の心内にある喜界観は、尊天様の形をケイラ山の伝説の物語りの舞台に想像し、その醸し出し移入される感性の獲得は、全くの慈愛によって完成されるとともに、現実の道場でなされる黄金の秘法道具が成す同意の伝説の舞台装置は、ここにおいて、ただの想念の集合を超越した、人間が歓喜、感涙を欲してやまない最高の境地である大慈大悲という境地を放つケイラの山の創造に到達するのである。

故に私の秘法に隙はないのである。

だからこそ皆には、この世の万物は全て慈愛という血液の潮流で冷やされ生成され存在しするのだということを、

そしてそれは突然に存在価値という永遠の哲学の疑問に答えを見出すということを、

これらの真理を御本尊は秘法を通し教え導いてくださっているのだと知って欲しいのである。

そしてその真理は、真理をしったものだけが連動させることができる波動の世界を振り動かし、我が秘法とそれが合致した時、まさに奇跡が起こるのだと理解して欲しいのである。

どうであろう、今回の寄贈の品からでた慈愛の教化を知ると、成就いまだならずという者の心の在り方、信仰の在り方が自ずと反省できないだろうか?

最後にこの袋香炉の事で起きた不思議な出来事をお話ししたい。

今までは私は電気の装置で油を沸かしていた、

なぜなら祭壇が居室であるから色々と問題が起こるからだ、今回この袋香炉の製造にともない、火を起す時に高槻の様な鉄皿でまず炭を起してから

にしてはどうですか?と半年も前から尊天様に言ってきたのだが、何回御神籤でお聞きしても半年の間、絶対無理だという手法しか尊天様は良いとおっしゃらない。

今年は私が足が痛かったのでサボってあまり深くお聞きしないのをいいことに沢山の自然事象が発生したのを考え、内心、さすがの私も半年の間、百回も引いて相談してもそのような答えに至る事に内心不安を覚えて頭を抱えておった、

そんな時、秋の大祭終了とともに届いたこの寄贈品を祭壇に供え、いよいよ今日の夜半からいい浴油が出来ると思い、もっとも必要な火の起し方を尊天様に念の為もう一度お聞きしたところ、

やはり寄贈品を目の前に、また現実味のない御神籤の答えが何度でもでるのだ。

すると、信じない私を尊天が怒ったのか、お聞きするたびに52番だの39番だの火事になるとか散々なお言葉を下さる。

私も意地になった。

「尊天様はお神様で現実の人間社会が見えてないんですよ」

私はそういって、今晩からの浴油のリハーサルとばかりに尊天様がやめろという

高坏型の鉄皿を出してきて作業をしようと尊天様の目の前でそれを手にした。

その瞬間である。

なんと鉄皿の高坏の柱部分がポッキリ折れたのである。

あの金槌で叩いても絶対に折れるはずのない、高温に耐える炭を起す鉄の皿が尊天の目の前でポッキリと容易く折れてしまったのである。

そこには私一人だったが、私は改めて大霊というか何かそこに確かに存在していて

その存在は非常に崇高でもあり、または鉄の皿を簡単に折ってしまう程の力を有した大力があるのだなと感じたのだ。

五分程であろうか、茫然自失とはまさにあのことであろう、しばらく私は魂が抜けた様に折れた鉄皿を見て沈黙した。

私は反省し、「尊天様、わかりました、あんまり短気を起こされますな、この第一の子たる兆象は、尊天様の言う通りにします」そういってまず手を合わせ謝罪してから

どう考えても全然駄目な尊天の指図通りにやってみたら、

これがなんと、すべて完璧に出来たのだ。

浴油の途中に中断することなく自在に火を焚き消す事も出来、

それは鉄の火皿の百倍やりやすかったのだ。

半年である。

百回以上聞き全て否定され、出された現実味のない尊天の案は

正しかったのだ。

あまりの驚愕に、

「尊天様、こんな全てを半年も前から透視なされ、

ましてや簡単に眼前で鉄皿を折るというその偉大な神力に、

なんの疑いなくこれからも尊天様にお頼りして間違いがないと私は悟りました。

全て尊天様、今この瞬間も、良い事も悪しき事も、この我を導いてくださっておられる妙智の力の一つ一つの顕れなのですね?

教団、または私のかわいがる信徒の心願は全て叶いますね?」

と思わずお聞きしてしまった。

それは私の心の声でもあった。

そのお答えは、まじめに信仰すれば55番満願成就するというものであった。

そして

「まじめにいたします、まじめにお世話申し上げます」

と申し上げたならば、

最後になんと無双の大吉一番が出たのだ。

 

私は確信した。

 

我が御本尊の霊験の確かなる事世に並ぶ神無く、その神力の及ぶ事世に比するものなどないのだ。

 

そう私は確信するしかなかった。

 

信徒に言いたい。

我が聖天教の御本尊様は、唯のお飾りの仏像ではない。

確かに我らと供にこの世に生きておわします。

                   合掌  聖天教教主兆象大宰

 

追伸

 電話なのだが大変お世話になっている方の指図で、意図はわからないが

新しいのを今月つける事になった。その方なりの私へのご指導、お考えが

あるのであろう、それまで千宰の携帯にかけられたし。以上ご連絡申し上げる。

 

 

 

 

 

 

 

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